ある事例紹介が目に留まった。
それは自身が携わったプロジェクトを、純粋に「相手を紹介する」意味を込めて、とても丁寧に作っていた。
誠実な姿勢に深く嫉妬 共感したので、今日は「広報」という営みについて、書きながら考え、考えながら書いてみようと思う。
広報とは、読んで字のごとく「広く報じる」こと。
起源をたどれば、街の掲示板や回覧板のような、ごく素朴な仕組みに行き着く。今のPRの概念が根付いたのも戦後のこと。それまでの国の一方的な伝達から脱却し、対話のプロセスとして持ち込んだのが始まりだと言われている。
広報のルーツは、なんとも人間臭いコミュニケーションである。
そして社会が大きくなるにつれ、より広く報じるためにメディアを利用することが当たり前になっていった。
たとえば、組織のトップがメディアに出て自社や自身のビジョンを語る場面。あれは外に向けて発信しているようで、実は社内へ向けたメッセージであることも往々にしてよくある。
社内の朝礼で直接語りかけるよりも、外部のメディアを介して話したほうが、言葉に権威性を纏わせることができ、説得力が生まれるからだ。広報が、経営者のビジョンや声を咀嚼し、社会へ伝播していく役割を担うのはこのためである。
そして、SNSがインフラとして定着した今。
広報という言葉は「ネット広報」の文脈で語られることが多くなった。昔は一部の力ある組織しかメディアを有効に使えなかったが、ネット広報としての活動が容易になった現代では、小さな声しか持たない人たちが徒党を組み、広く報じる動きを作れるようになった。
これはこれで素晴らしい変化だと思う。ただ、現代のネット広報には落とし穴もある。
インターネットは広く開かれているようにで、情報を閲覧する個人の端末上では徹底的にパーソナライズされてしまう。結果として、自分と似たような属性を持つ内輪に情報が回り、狭いコミュニティに閉じこもりやすくなる。
広報の対象をステークホルダーの文脈で考えれば、本来の利害関係者は「いいね」をくれるフォロワーよりもずっと多く、多様なはず。
PRと広告などの違いを説明するマトリクス図から紐解けば、広報は無知から「他者認識」を形成していくプロセス。自分が「こんなに素晴らしい」と叫ぶのではなく、関係性を築き、結果として相手に「信頼している」と認識してもらうこと。
それこそが本来の広報の在り方だと思う。
では、いまの自分のような「1人体制」に置き換えてみると、どうだろう。
過去には組織の代表として企業や自身を広く知ってもらおうと試行錯誤した時期もあった。だが、組織から離れ、1人で動くことを選択した今の自分にとって、大々的な広報は、正直そこまで必要とされていない。
しかし、広報という営みを手放したわけではない。
限りあるリソースをどこに集中させるかと考えたとき、クライアントワークを通じて、自分ではなく「お付き合いのある会社さん」の魅力を広く報じることこそが、今の私が果たすべき広報なのだと思い至った。
そこで大切になるのは、ネットではなく人が介在するリアルな場。
ネット空間が心地よい情報だけで最適化されるからこそ、ノイズも含んだ「生きた対話」の場として、リアルの重要性が相対的に増しているのではないだろうか。
…と、急に「増しているのではないだろうか!」なんて大仰なことを言いながら、結局のところ“対面・対話”を正当化したいだけなのかもしれない。または、今の環境から生まれた、単なるポジショントークかもしれない。
わざわざ時間を使って足を運び、同じ空間の空気を吸うという、一見すると非効率な行為。決して非効率であることを美徳にしたいわけではない。
ただ、そうやって目の前の一人と泥臭く向き合うことでしか見えてこない、手触りのある熱量や輪郭は確実にあると思っている。
ふと目にした、相手を想って作られたあの事例紹介のように。
対話の底からすくい上げた誰かの魅力を、一つひとつ丁寧に世の中に伝えていく。それが、今の私にできるささやかな広報の形なのだと思う。