曖昧な余白

みなし残業。

求人票で当たり前のように目にする言葉。

給与明細に「固定残業代」として印字されている場合もある。残業過激派はブラック企業の象徴のように語ったりもするけど、今回は残業の善悪を論じたいわけではない。

気になったのは、この仕組みが持つ正体不明の「曖昧さ」について。

構造をフラットに見てみよう。

例えば「月20時間」のみなし残業代が含まれているとする。これは言い換えれば、20時間分の残業代の「前払い」。爆速で仕事を終わらせ定時で退社しても、手当は一円も減らない。論理的に考えれば、「早く帰るほど時給が上がる」システム。

反対に、枠内であれば残業しても追加報酬は出ない。建前上は、時間の裁量がある程度労働者側に委ねられていると言える。

しかし、その裁量が本当に労働者側にあるかといえば怪しい。フルリモートの裁量労働制でもない限り、出社義務や定時という縛りがある中で、自ら時間をコントロールするのは難しい。

とは言え、労働者側もみなし残業の恩恵を受けている部分はあり、「じゃあ一切残業しません」と白黒つけて「なら、みなし分はカットね」となれば、毎月の手取りは減額する。

ここに制度の建前と現実の深い溝がある。

結果として、会社も働く側も「追加コストなしの定額プラン」と錯覚しがち。権利と義務の境界線がぼやけるこの感覚が、みなし残業最大の不気味さなのかもしれない。

そもそも、この労働時間を「みなす」発想。

タイムカードがオフィスの入り口にしかなかった時代、外回りの営業職など「いちいち測れないから、これくらい働いたとみなそう」という妥協の産物らしい。見方を変えれば、行動を逐一監視しない「会社側の配慮」から生まれた制度とも言える。

だが、今は違う。

パソコンのログは秒単位で残り、スマホのGPSで現在地は筒抜け。チャットツールにはオンラインの緑マークが光る。テクノロジーの進化で「把握が困難」という大義名分は消滅しつつある。

もっとも、すべてを厳密に管理しているのは大企業の話で、多くの中小企業では曖昧な管理が現実。(そもそも、そんなガチガチの管理体制は息が詰まる)

ではなぜ、このアナログな仕組みが雇用契約のど真ん中にしぶとく居座っているのか。

それは、企画職や制作職など、思考やアイデアが価値を持つ仕事において、労働時間と成果が比例しないから。

断定するのは良くないけど、ここは主語を大きく、もう一度言う。

思考やアイデアが価値を持つ仕事において、労働時間と成果は比例しない。

もちろん、ここでの「成果」の定義にはシビアになる必要がある。いくら素晴らしいものを創っても、利益が出なければ商売として成立しない。短時間で高い価値を出せるなら、時間を埋めさせるのではなく、会社は適正に単価を上げる必要がある。

デスクで3時間唸っても何も出ない日もあれば、シャワー中の5分で最高のアイデアが降ってくることもある。脳内の労働までタイムカードで管理するのは流石に難しい。「これくらいの手当を渡すから、あとは裁量で」と余白を与えられた方が、精神的なゆとりを持てる人は多いはず。

会社側にとっても、みなし残業は単なる人件費削減ツールではない。先の読めない環境で、急なトラブルに対応できる「バッファ」を持つための防衛本能とも言える。

こうして眺めると、みなし残業は「時間=価値」という工場労働のルールと、「成果=価値」という知識労働のルールがぶつかり合う断層に存在している。

結局、この曖昧な契約が毒になるか薬になるかは、そこに「信頼」があるか。

定時退社を「効率が良い」と評価する組織なら、自由な働き方を後押しする。「枠が余っているのに」と眉をひそめる組織なら、ただの搾取システムに成り下がる。

制度そのものではなく、運用する側の成熟度が反映されているだけ。

徹底した管理社会には合わない気もするし、複雑な社会を乗りこなすのに必要な「余白」である気もする。「みなし残業手当」の向こう側に、会社と自分の間にどんな合意があるのか。それは時間の安売りか、プロとしての裁量を買っている証か。

どちらの気持ちも痛いほど理解できるけど、もし会社側でスタッフからみなし残業について問い詰められたら・・・と想像するだけで、急性胃腸炎になりそうだ。

とりあえず、ここまで読んだ方は空を見上げて、6秒大きく深呼吸をして欲しい。

ではまた。

Takanobu Maruyama

たぬき合同会社 代表 / 大阪芸短 講師
📍 Kawanishi, Hyogo.
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